2013年3月31日日曜日

開校30周年


 前回に引き続き、30周年の話です。千葉県立佐倉南高校は、市内で4番目の県立高等学校として昭和58(1983)年4月7日に開校しました。ただ、開校式と入学式は準備の都合から、佐倉西高等学校の体育館を借用して開催され、翌日8日から、生徒はこの校舎に通学したということです。それから開校時には体育館も未完成の状態でしたが、その年の秋には完成したということです。
 写真の佐倉南高校は、昭和60(1985)年の2月頃だと思います。既に体育館も完成していますが、周囲は未だ開発途中で松林があったのが分かりますね。その時は、随分と寂しい所に高校を建てたものだと思ったことを覚えています。

2013年3月24日日曜日

開設30周年

  浦安市にある夢と魔法の王国は今年30周年を迎えるとのテレビコマーシャルを見ました。テレビでのCMは流していませんが、国立歴史民俗博物館も今年3月で開館30周年を迎えると新聞に記事が掲載されていました。
 さて、全く宣伝をしていませんが、同じような時期に開設して、今年30周年を迎える施設が佐倉市内にもあります。
  写真の「農村婦人の家」は昭和58(1983)年3月にオープンしました。
  この施設は、農家の婦人がグループ活動などを通して、学習や共同作業、情報交換や生活技術を学び、新しい村づくりを目指す活動拠点となるように設置されたということですが、私の知り合いからは、農産加工実習室での味噌づくりやタケノコの缶詰づくりなどに利用されていると話を聞きました。なお、残念ながら写真の建物は平成20(2008)年に取り壊され、施設はリニューアルした弥富公民館の中に組み込まれてしまいました。
 

2013年3月17日日曜日

最後の分校

  佐倉市最後の分校は、昭和52(1977)年3月31日に廃校となった青菅(あおすげ)分校です。
  この分校の歴史は古く、開校は明治38(1905)年のことです。この年は、前年の2月に開戦した日露戦争が5月の日本海海戦を経て、9月にポーツマス条約を締結した年でした。
 おそらく、分教場でも日本の勝利を祝賀した行事が開催されたことでしょう。
 分教場から志津小学校の分校となり72年の歴史を閉じて廃校になってから間もなく36年になりますが、今も当時の校舎が残されているのは、地元の方が大切にしているからでしょう。
 校庭を囲むように植えられている桜が、今年ももうすぐ咲き始めます。
 

2013年3月10日日曜日

68年目の春

  昭和20(1945)年3月10日の午前0時過ぎから約2時間半の空襲で、東京の墨田区、江東区、台東区は焼失し、約10万人の人々が亡くなられました。
 私の母は、当時、亀戸に住んでおり妹の手を引いて逃げ惑ったという話を聞いたことがあります。母の存命中に詳しく聞いておけばよかった思いますが、覆水盆に返らずです。
 この日、佐倉市内にも焼夷弾が落とされ、根郷国民学校(現在の根郷小学校)の太田分教場の校舎が全焼してしまったそうです。
  太田分教場は、大正4(1915)年に設立され、昭和22(1947)年に太田分校に改称した後、昭和45(1970)年に廃止されましたが、その跡地には、写真のとおり今も校門の柱が残されています。
  現地へ足を運びますと、どうしてこんな所に焼夷弾を落としたのかと疑問に思いますが、それが戦争というものなのでしょうか。

2013年3月3日日曜日

ご近所の遺産

  再び3月11日が巡り来ます。未だ復興とはいえないのが現実です。
 さて、佐倉市では、学校など公共施設の耐震化工事を進めているようですが、市役所の建物もその必要があるそうです。
 写真は昭和46(1971)年3月の庁舎竣工式式典時のものということだそうです。新築庁舎の見学に並ぶ人々とお祝いの花輪が見えます。
 この建物は建築家で文化功労者でもある故黒川紀章(くろかわきしょう)氏の設計によるものだそうで、今でも建築家を目指す学生さんが見学に訪れるという話を聞きます。
  竣工から42年も過ぎていますから耐震化の補強工事をするのか、それとも建て替えるのか、これから方向が決まるのでしょうが、昭和の建築遺産として保存しようという意見も出るかもしれませんね。