2011年6月25日土曜日

上の街(うえのまち)

  佐倉城の城下町であった旧市街は坂の多い街です。これは佐倉城の築城にあたり、台地と台地の間に入り組んだ谷津や河川を利用したことが理由ということで、城下町も台地の上に整備されていました。
 街中の坂道を歩いていると「佐倉散策~佐倉の坂~」という案内板を目にすることがあります。それを見ると今歩いている坂が、江戸時代の城下町の絵図に書かれていた坂道であることが分かります。
 さて、近代になって、かつての城下町に官公署が設置されました。また買い物をするのにも周辺に住んでいる人々は必ず坂を上がって用を足しに行かなければなりませんでした。
 だからでしょうか、私の住んでいた六崎では新町辺りを「ウエノマチ」と呼んでいました。たぶん坂の上の街という意味だと思います。
 写真は新町の交差点付近にある看板です。話し言葉の「上の街」を文字で書いたものを初めて見ました。
 余計なお世話ですが、「国立歴史民族博物館」は「国立歴史民俗博物館」です。ちなみに「国立民族学博物館」というのが大阪府吹田市の万博記念公園内にあります。 

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2011年6月18日土曜日

両町橋

  隅田川の川開きの花火の名所に「両国橋」があります。この橋は、西側が武蔵野国で東側が下総国と、二つの国に跨っていたことから両国橋と呼ばれたのだそうです。
 ところで、市役所から海隣寺の坂を下って、国立歴史民俗博物館入口の坂道に至る途中に、お堀に架かる小さな橋があります。この橋は名前を「両町橋(りょうまちばし)」といいます。両国橋のように、田町と城内町の間にあるので両町橋というのだろうと思っていましたが、実際は田町の歴史に由来する名前ということです。歴史民俗博物館入口側の国道296号沿いにある田町の家並みは、道路の片側がお堀なので、家は建築されず「田町片町」と呼ばれていたのに対し、海隣寺の坂下からお堀に至る田町の家並みは、道路の両側にあるので「田町両町」と呼ばれていたそうです。この古くからの呼び名にちなんで「両町橋」と名付けられたそうです。この橋ができたのは昭和58(1983)年12月のことです。

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2011年6月12日日曜日

天使の森公園

 大蛇町の端の方に「天使の森公園」という、おしゃれな名前の公園があります。特に華やいだ感じの公園ではなく、ただ広い空き地の奥に写真の彫像が置かれているだけの公園です。公園名には地名に由来するものが多いのに、なぜ天使の森なのか疑問に思う人がいると思います。かつて本町のバス通りには、「天使の森入口」という看板が建っていました。さぞや素晴らしい森があるのだろうと思い、小学生の私は、天使の森に行ってみたいと祖母にせがんでみたところ、そこは焼き場(火葬場)だよ。と教えられました。天使の森とは、まさしく天使がお迎えにきてくださる斎場のことでした。
 佐倉市、習志野市、酒々井町葬祭組合が設立されたのは昭和40(1965)年5月のことで、後に習志野市は脱退し、平成5(1993)年4月からは佐倉市、四街道市、酒々井町葬祭組合となり、斎場が現在地へ移転し「さくら斎場」となったのは平成8(1996)年7月のことです。そして以前の斎場の跡地は「天使の森公園」となりました。ちなみ「天使の森」の名付け親は、寺崎出身の実川市議会議員だそうで、彫像には氏の詠んだ短歌「人の世の道それぞれ違なれど天使の森にねむるやすらぎ」が刻まれているそうです。

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2011年6月4日土曜日

皇太子の行啓記念碑

 東北大震災のニュースで避難場所をご訪問される天皇、皇后両陛下を拝見し、ご高齢で体調もすぐれない中で、被災された方々をお見舞いするお姿に、心が温まりました。
 さて、佐倉市にも時折、皇族の方々が来訪されます。最近では、平成22(2010)年9月9日に皇太子殿下が国立歴史民俗博物館を見学されておりますが、明治44(1911)年5月21日にも皇太子殿下(後の大正天皇)が佐倉を訪問されました。
 皇太子殿下は、5月19日から23日まで千葉県内を巡り、佐倉には21日の午前中に訪れています。連隊を視察した後、前年に新築された千葉県立佐倉中学校本館(現在の県立佐倉高等学校記念館)も訪問され、体操や地理の授業を視察されたり、生徒の作品で優秀なものを持ち帰ったりしたそうです。
 この行啓を記念して建てられた石碑が写真の「皇太子殿下御野立所」です。この記念碑は、県立佐倉東高等学校脇の自由広場の片隅に、今もひっそりと建っています。なお、記念碑の文字で「御堅立所」と読んでしまいそうですが、「御野立所」(高貴な方が野外で休憩された場所)だそうです。ついでに、この碑が建てられたのは、大正5(1916)年5月21日と刻まれています。

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