2011年2月27日日曜日

浅井 忠氏の像

 佐倉と縁のある人物に、日本近代洋画の先駆者として明治時代に活躍した浅井 忠(あさい ちゅう)氏がいます。
 浅井氏は、安政3(1856)年に江戸の佐倉藩邸で生まれましたが、父親が亡くなったことから、国元の佐倉に戻り、暫くの間、将門町に住んでいました。その頃、黒沼槐山(くろぬま かいざん)氏から日本画を学び、18歳になると、明治政府が設立した工部美術学校でイタリア人画家のフォンタネージ氏から洋画を学び、明治33(1900)年から2年間フランスに留学した後、京都へ移住して、関西美術院などで後進の育成に尽力した人物です。
 写真は、佐倉市立美術館の脇にひっそりと立っている浅井氏の像です。この像はもとは佐倉市役所の敷地にありました。それも「カクレミノ」という木の脇に建てられていました。「かくれみの」は正岡子規氏の紀行文のタイトルでもあります。明治という時代にそれぞれの道で先駆者であった正岡氏と浅井氏は、交友関係にあったそうですから、「カクレミノ」の木は、二人の関係を知る人物によって植えられたような気がしてきます。

ラベル:

2011年2月20日日曜日

GR2

 佐倉にはもう一つ調圧塔があります。銀色のボディにオレンジ色の螺旋階段が巻き付いている「間野台調圧塔」です。
 臼井の台地に立つ間野台調圧塔には頭部のような部分がないからでしょうか、羽鳥の調圧塔ほど人気がないようで、愛称のような名前を聞きません。
 羽鳥のロボット塔と同様に、千葉県企業庁が印旛沼から取水した水を工業用水として配水するための施設で、やはり五井市原地区、姉崎地区に送水しているそうです。
 印旛沼からの取水は、ふるさと広場近くにある浄水場で行っています。施設はJFEスチール(株)(以前は川崎製鉄株式会社)と共同になっているそうです。
 間野台調圧塔も昭和40年代中頃に設置され、高さは40メートル、鋼鉄製ということです。 二つの調圧塔は、佐倉のランドマークといえるほど、私にはなじみ深いものです。

ラベル:

2011年2月11日金曜日

羽鳥のロボット塔

 JR佐倉駅から四街道方面に向かって道路を走っていると、深緑の森の上にきれいな青色の巨大な塔が建っているのが目に入ります。中央部がくびれた細長い鼓のような胴体の上には、展望台のようなものが乗っています。この展望台のような頂上部分についている四角い窓が、遠くから見ると、まるでロボットの頭についている目のように見えることから、いつの頃からか「ロボット塔」という愛称で呼ばれるようになりました。
 昭和40年代前半に出現したこの塔は、千葉県企業庁が印旛沼から取水した水を、五井や姉崎や袖ヶ浦などの臨海地域にある石油コンビナート地帯に、工業用水として送るための調圧塔だそうです。塔は鋼鉄性で高さは42メートルあるそうですから、まさしく巨大ロボットの雰囲気があります。
 工業用水は、毎秒5立方メートル、日量401,760立方メートルで31社に供給されているそうです。

ラベル:

2011年2月5日土曜日

正岡子規と佐倉

  昨年末に放映されたNHKドラマ「坂の上の雲」の主役の一人に正岡子規がいました。旅行好きだった子規は、佐倉を2度ほど訪れているそうで、佐倉の風景を詠んだ俳句の句碑が市内には二つあります。写真はその内の一つで城址公園にあるものです。「常盤木や冬去れまさる城の跡」冬のきびしい城跡に常緑樹が茂る様子を詠んだものということです。もう一つの句碑「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」は、高崎川沿いの小沼児童公園にあります。
 句碑はありませんが、子規が詠んだ佐倉の句として「揚雲雀(あげひばり)下に菜ばたけ麦畑」が知られています。この句は「かくれみの」という文集に収録されているそうです。
 ところで、佐倉市役所の敷地に「カクレミノ」という木が植えられています。市役所でカクレミノというと何だか勘ぐってしまいますが、暗に子規と佐倉の関係を示しているものなのでしょうか。

ラベル: