2013年1月27日日曜日

山に鹿はいるか

  県立佐倉高等学校の前に「鹿山文庫」という大きな看板があります。看板には読み仮名がふられていませんが、「ろくざんぶんこ」と読みます。
 看板の説明には、「1792年創立の佐倉藩学問所時代より蓄積・継承された和漢洋の書籍・歴史資料」とあります。もう少し詳しく紹介しますと、寛政4(1792)年に佐倉藩の学問所が開設されて以来、藩が買い求めてきた書籍群で、教科書にも出てくる蘭和辞典「ハルマ和解」も含まれています。医学関係の書籍も数多く保管されていますが「鹿山文庫」と称するものは、明治45(1912)年までに刊行されたものだそうで、これらの一部は図書館脇の地域交流施設で公開されています。なお、地域交流施設は入場無料ですが、土・日・祝日しか開館していませんので、ご注意ください。
 ところで、佐倉高校の住所は佐倉市鍋山で、「鹿山」ではありません。どうして「鹿山」かと言いますと、佐倉城があった台地が鹿島山や鹿島台と呼ばれていたことに因んでいるそうで、古くは佐倉城も鹿島城だったということです。明治になった後、藩校は「鹿山精舎」という学校に継承されこともあり、鹿島山の呼称が「鹿山」のルーツのようです。

2013年1月20日日曜日

カイダハトンダ?

 元横綱大鵬であった納谷幸喜氏が亡くなられました。私も「巨人・大鵬・卵焼き」の世代でしたので、また一つ昭和の星が消えてしまったことに寂しさを感じざるをえません。
 さて、その当時の巨人の人気を支えていた選手に長嶋茂雄氏がいらっしゃます。以前に岩名球場の名板の文字が長嶋氏によるものということをご紹介しましたが、今回は、扁額をご紹介します。長嶋氏の母校でもある県立佐倉高等学校(同氏の在籍当時は、県立佐倉第一高等学校という名前でした)には、氏の筆による「洗心」という扁額が飾られています。
 昨年は、NHKの連続テレビドラマに佐倉高校記念館が登場したため、佐倉高校を訪れる方が増えたようですが、いつかは、長嶋氏をモデルにテレビ小説を作って頂きたいものですね。
 ちなみに、同高校の図書館脇にある地域交流施設には、長嶋氏に関する資料も展示されています。

2013年1月14日月曜日

400年・刻を越えて

 最近、市内の各所に妖怪が出没しているそうです。この物の怪は、佐倉城の書院の戸板に描かれていた子供で、夜な夜な絵から抜け出して、城内で遊んでいたということですが、お城が取り壊されてからは、その地で眠っていました。平成22(2010)年1月に何故か佐倉城築城400年を記念して目覚めたという設定だそうです。そんなわけで、この物の怪はおかっぱ髪の少女の姿ですが、年齢は400歳ということだそうです。
 さて、この設定の元になっている佐倉城の築城は、「土井利勝」が慶長15(1610)年に佐倉の領主になり、翌年からお城の建造を始め、元和3(1617)年頃に完成したということです。
  弥勒町ある松林寺は、初代城主「土井利勝」縁のお寺で、父母と奥様の供養塔(宝篋院塔)が建てられています。写真の中央の塔が母、左が父、右が奥様のものだそうです。この供養塔は昭和52(1977)年1月19日に佐倉市の文化財に指定されています。

2013年1月6日日曜日

伝説の大蛇

  新年明けましておめでとうございます。今年は巳年ということで、佐倉での大蛇伝説をいくつかご紹介します。
 最初は、佐倉城のお堀に住んでいた大蛇です。佐倉城址公園の西側に御三階駐車場がありますが、昔その近くのお堀に大蛇が住んでいました。昼寝をしていた大蛇を、ある人が松の大木と間違えて座って休んでいたところ、大蛇が動きだしてびっくりしたという話です。この大蛇は城址公園の東側にある姥ヶ池と行き来をしていたようですが、さらに、飯重地区の七井戸の池まで行っていたようで、洪水で飯重が水浸しになった時には、江原の土手に上がっていったということです。
  次は、下勝田にある勝間田の池の大蛇です。ある人が勝間田の池で釣りをしていた時のことです。急に天気が悪くなり、嵐になったところ、水しぶきをあげて腹の赤い大蛇が出てきたそうです。それを見た釣り人はびっくりして池にはまってしまい、這うようにして家に戻ったという話です。
 もう一つ、臼井の八幡様の大楠の根元に住みついた大蛇は、時々人を食っていたそうで、印旛沼の漁師が舟の上で昼寝をしているところを狙っていましたが、漁師は夢に出た白髪の老人に助けられたという話です。
  ちなみに、この大蛇のウロコが実蔵院というお寺に納められているという話もあるそうです。